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何流と倚らで真理を辿るのみ
  耳で視るまで松風のとも
(初代 新沼椿渓先生 作)
初代 新沼椿渓先生

初代 新沼椿渓先生

真理には国の境も敵もなし
   情けは人のうてななりけり (初代 新沼椿渓先生 作)






流祖 新沼椿渓先生は 文久二年、仙台伊達藩士の家にお生まれになりました。
代々作法の家柄で小姓として伊達公に仕えられたのであります。
18歳の春、明治12年、志を立てて東京に出で、桃井道場で剣の修業をされました。
のちに山岡鉄舟先生に師事して武道に精進されましたが惜しいかな、25歳の時に健康を害されましたので山岡先生のお勧めにより志を茶道に転じ表千家家元に入門されました。
ここで修業されること数年に及びましたが、たまたま加賀の長興寺に当時日本にただ一人という茶道諸流の奥義を極めた高僧のあることを聞かれ入門を乞われました。それ以来米搗きを命ぜられ2年有半がたちました。その間師匠より茶事については一事も授けられませんでした。
そこである日
「何日より茶事についての修業をお始めいただけるや」
とお問いになりますと師の坊は
「日々の米搗こそ修業ぞ」
と答えられました。
ここに翻然茶道の奥儀がいずれにあるかを悟られたということであります。
やがて師の坊も心から先生を導かれ、諸流の奥義を伝えられ、極意皆伝を授けられました。

これより先、先生は葛城山の慈雲尊者に深く帰依され、その教えを拠りどころとして神仏一体、物心一如、天地の大道に則る真正の茶道を確立されました。
先生はその後も道を求め、道を広める為に諸国を行脚されました。
ある時は深山に獣と共に寝起きし木の実、草の根を食しての難行等、十有六年にも及びました。
ある時、一輪の椿が渓谷にはらり、と落ちました。椿渓の名号の由来でございます。
そして紫野の大徳寺の宗家より宗匠の號を許されその資格を完うせられたのであります。又、この道に慕いよる門人に対しては寝食を忘れて教え導きその一生は熱意と努力の連続でありました。

先生は昭和一八年二月一四日に逝去されましたが、生涯を道に捧げ、道に生き、道につくされた茶聖と申すべき方でありました。
立礼点前

陣点茶道開祖碑


右のお写真は 流祖 新沼椿渓先生の墓碑。 その左の石碑には

以下のように刻まれています。

一世の茶聖 新沼 椿渓 宗匠は、文久二年 仙台伊達藩士の家に生まれる。
一八歳にして山岡鉄舟先生の門に入り武を練しが 二五歳の時 病を得、志を転し表千家家元に入門し茶道に精進せしが、諸流を極め、深山に入り難行一六年、庭園三所を造り、紫野大徳寺なる宗家より宗匠の號を許さる。
是より全国を行脚し後、帝都に居を定め皇國陣点茶道を創始し家庭教育の刷新に提身して寝食を忘る。
然るに八二歳を一期とし後進の敬慕を後に神去り給う。
噫、今や惜しめども帰り給はず。
此処に老師の徳を讃えて後世 道を修る者の規範と為す。

   昭和一八年一二月            松平俊子 謹撰


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